フレンチの神様ジョエル・ロブションの軌跡

2018年08月09日(木)カルチャー 

2018年8月6日(月)にフランス料理の巨匠ジョエル・ロブション Joël Robuchon が亡くなりました。73歳でした。

”フレンチの神様”、”世界一星の多い男”といわれていた彼ですが、私生活についてはほとんどメディアで話題になることはありませんでした。子供が二人いて、2011年から娘と二人で France 3 のテレビ放送 〝Planète gourmande (美食の惑星)”を始めたこと、これが彼が家族とメディアにでる初めてのことでした。多くの人は彼の奥さんの名前も知らないというのが現実だと思います。

 

 

そんなジョエル・ロブションのプライベート、彼の自身のことばを含め、彼の一生の軌跡をご紹介します。

 

 

ジョエル・ロブションの軌跡

ロブション は1945年4月7日にフランス西部のポワチエで生まれました。

彼の家族は元靴修理業の家に住んでおり、台所の役割をしていた部屋から家に入ってもう一つの住居に通じる廊下を通り、自分たちの部屋へ入るようになっていたということです。

ジョエル・ロブションのお父さんのHenri は左官工でほとんど読み書きのできない人でした。お母さんは家庭の主婦で、家族は質素に暮らしていました。

そのお母さんの作る料理は質素なものでしたが、おいしいものでした。 ロブションの料理人としての原体験は、お母さんの料理にあります。

Robuchon は言います。

「お母さんがパンくずとニンニクとパセリを詰めたムール貝とプリンを作ってくれたのを今でも感動的に覚えています。 お母さんがパンをみんなに切り分けてくれるのです。それは厳かな一瞬で、わたくしたちの家族の強い象徴的な時でした。」

 

ロブション の一家は熱心なカトリックの信者で、Robuchon は12歳の時に神学校に入ります。

「私はそこで私の神秘的な傾向を養ったのですが、同時に料理と美食についても育てられていったのです。勉強とお祈りの間に、私はシスターたちの中でリラックスすることができました。台所で彼女たちが食事を準備するのを手伝ったのです。そうして私は神学者になるのではなくてコックになることを決めたのです。」

 

15歳になると両親が離婚したので経済状況はさらに悪くなり Robuchon は自分で稼ぐことを考えなくてはなりませんでした。 そうして彼は丁稚としてレストラン Le Relais de Pointiers に入ります。

「私は鍋窯を磨くことから始めました。朝早く窯に火を付け、午後には野鳥の羽をむしり、テーブルウエアーをきちんと折りたたむ手伝いをし、芝生を刈ることをしました。今の時代から言えば、少し搾取されていたんですね。1日14時間は働きました。6か月の間休みなく働いたのです。」

 

やがて運命は彼をパリへ連れてゆきそして世界へと飛翔させるのですが、彼自身は生まれ故郷のポワチエで自分の人生を終わることを望んでいたようです。

「私は父親が自分で手を加えた家で子供時代を過ごしましたから、その家を今度買いました。私は自分のキャリアをポワチエで始めましたから、ポワチエで人生を終わるのです。」

 

各地を転々として修業しながら、やがてRobuchon はパリへ上ります。最初の職場がジョルジュ・ポンピドーGeorge Pompidou (第19代フランス大統領)や エドガール・フォール  Edgar Faure (フランスの政治家、作家)たちがよく来ていたL'Auberge du Vert-Garant です。

この間にRobuchon は当時の偉大なるシェフであるCharles Barrier, Alain Chapel, Jean Delavayne たちの薫陶を受けます。

しかし彼のキャリアを開いたのは、Berkeley のコックをしていた時でしょう。そこには当時の有名人が目白押しでした。サルバドール・ダリ Salvador Dali(芸術家), アリストテレス・オナシス Aristote Onassis(実業家), マリア・カラス Maria Callas(歌手), アンドレ・マルロー André Malraux(政治家、作家), ピエール・ラザレフ Pierre Lazareff(作家、プロデューサー) といった人々に出会えたのです。

そして1974年にはConcorde Lafayette ホテルのシェフとなり、2年後にはMeilleur Ouvrier de France【フランス国家最優秀職人章】 を獲得します。

 

Robuchon は完璧主義者なのです。

「私は小学校の時からただ一つの目標しかありませんでした。一番になることです。それは私の性格の特質なのです。そして年を取っても変わりませんでした。」

その後ニッコーホテルのシェフを務め、その時に彼は二つ星を獲得します。

1981年には自分のレストランJamin を開きます。

最初の年に一つ星を獲得し、2年目には二つ星、そして3年目には三ツ星を獲得するという勢いでした。これは美食の歴史で、Robuchon が成し遂げた記録です。

1990年にはGault & Millau (ゴー・ミヨ・・・フランスで最も影響力を持つグルメガイドの一つ)が彼のことを世紀のシェフと名づけました。

パリのポワンカレ通りに新しいレストランを開き、Herald Tribune 紙が世界最高のレストとランほめたたえた後で、彼は50歳でいったん引退します。 その後再び美食の世界に戻り、世界へと発展してゆきます。

2016年までで彼はミシュランの星を32個集めています。

 

ジョエル・ロブション成功の秘密

彼の成功の秘密はどこにあったのでしょうか?

それは、完全に自分のものにした地方料理にあったといえましょう。そこには何の気どりもありませんでした。ジャガイモのピュレーがRobuchon の象徴的な料理になったのも意味のないことではありません。

「私が1981年に自分のレストランを開店した時には、ジャガイモは一流のレストランでは使われていませんでした。私は豚の頭の料理をアラカルトで出しましたから、それに付け合わせとしてジャガイモのピュレーを出したかったのです。 当時はだれもジャガイモのピュレーを作っていませんでした。家庭では、粉末のインスタントピュレーが流行っていた時代です。こうして美食の顧客たちは、おばあちゃんの味であるジャガイモのピュレーを再発見することになるのです。New York Times がすっかりそれに惚れてしまい、私は世界中でこのジャガイモのピュレーを出しました。」

この Robuchon のシンボル的なジャガイモのピュレーを彼は自分の子供のころの思い出の中から見つけてきました。

「私のお母さんはよく日曜日の鶏と一緒にこのジャガイモのピュレーを出してくれました。家の農場へジャガイモを探しに行ったのです。ジャガイモは私の子供時代の家の野菜の基本でした。」

Robuchon は彼の輝かしい一生のうちで決して自分の生い立ちを忘れませんでした。

 

彼は1966年に、Compagnon du Tour de France des Devoirs Unis (フランス回周義務のコンパニオン組合連合)の一員となります。

この組織は、親方や先輩のもとで若者たちが修練を基礎として伝統的な職人技術を学べるようにということでできた組織です。 フランスでは、文化そのものが自分たちが作り育て上げそして次の世代に伝えてゆくものであるという考え方が基本にありますから、この義務のコンパニオンもそうした文化文明に対する基本的な考え方から出ているといえます。

この組織のコンパニオンになってフランス中を駆け巡り各地の先輩や親方から技術やコンセプトを学ぶためには、まずコンパニオンとして認めて受け入れられなくてはなりません。 学ぼうという姿勢や人間関係に対する姿勢がその受け入れられるために基準になります。

いったん受け入れられ各地の組織で修練をすると次にはフランスの各地にある組織を回って修行を続けます。これが数年続きます。 フランスの土木建設の最大手のBOUYGUEもこの義務のコンパニオンのコンセプトを守っている会社です。

神話によると、ソロモン王とジャック親方とスービーズ神父がこのコンパニオン制度の創設者ということになっています。

スピリットは、それぞれのコンパニオンが職人的な仕事によってそして職人的な仕事の中で分かち合いの精神をもって自己実現をしてゆけるようにということです。 同時にコンパニオンたちにとっては立派になされた仕事、実経験の豊かさ、そうして自分が身に着けた経験や知恵やノウハウを伝えてゆくことがコンパニオンとしてなすべきこととして認識されているのです。 そこには、集団生活の中で自分の性格を生かしてそれを育てながら職人技術を身に付けてゆくという一つの流れができています。

 

ジョエル・ロブションの人生の使命は、まさにこのコンパニオンのエスプリ、”伝えること”でした。

「私たち一人一人のメンバーの義務は伝えることなのです。私たちは先輩たちから受け継ぎました。今度は私たちが、技術、ノウハウ、修練の結果などを伝える義務があるのです。見えないような側面についてもです。台所においては説明しても伝えられないことがあります。観察と繰り返しによってのみ、こうした側面は伝えられるのです。」

彼が一時50歳で引退をした時にも、それはこうしたCompagnon の義務を果たしたいという気持ちがあったからです。その後再び美食の世界に戻ってきても彼は決してこのCompagnon の義務を忘れはしませんでした。

そうして多くの弟子たちがそれを示しています。

彼ら曰、『一年Robuchon のところで修行すると他のところでの修行の5年分は学べる』

 

 Robuchon はとても啓発的ですが同時にとても厳しいところがありました。そして彼自身がそれを認めています。

「私は決して付き合いやすい先輩ではありません。私と一緒に働いている人々に私は実に厳しく要求します。私はいい加減になされた仕事が大嫌いなのです。何かが私の意図に逆らうようになされると、私はもう禅のように冷静ではいられないんです。私は日本が大好きなんですけどね。私のところで働いている責任者たちはもう何十年と働き続けていてくれます。要するに彼らは私の困った性格のおかげで成長したんですよ!」

彼のCompagnon の後世に伝えるという精神は、一般家庭にも影響を与えています。ロブションはFrance 3のテレビで、2000年から2009年まで « Bon Appétit Bien Sûr » という番組を友人でもある Guy Job と作り、放映されていました。この番組は、フランス人の家庭に料理が浸透するのに大きく貢献しました。

 

ジョエル・ロブションの成功は、彼の人生と性格、持って生まれてきたもの、経験したものすべてでもって全身全霊をかけて料理という形で表現してきたからといえましょう。

彼のレストランは世界中にあり、彼の弟子は世界中で活躍しています。

「フレンチの神様」ジョエル・ロブションがこの世に遺してくれたフランス料理の文化をみなさんも機会を見つけて楽しんでみてください。

 

テーマ:ジョエル・ロブション、フレンチの神様、ミシュラン三ツ星



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