ゲルニカ誕生80年

2017年04月27日(木)カルチャー 

有名なピカソのゲルニカが誕生してから80年となりました。ゲルニカ誕生秘話とピカソの生前のアトリエの今をご紹介します。


 

ゲルニカ誕生秘話

1937年4月26日にバスク地方の小さな村ゲルニカが爆撃によって燃え盛っていました。

ちょうどその頃ピカソは同じ年の5月から始まるパリで行われる世界博覧会のスペイン館を飾るための絵画を考えていました。30年前からパリに住んで活動を続けていたピカソは翌月から始まる万博を控えてまだ自分の絵画のテーマも見つけてはいませんでした。

4月28日の共産党の新聞『ユマニテ』を開いたピカソはバスクの小さな町ゲルニカの悲劇を知ります。すぐさまピカソは8メートル高さ3.5メートルのキャンパスを注文しました。注文したのはもちろんスペイン時代に出会った友人のAntonio Castelucho のやっている画材屋です。当時は、rue de la Grande-Chaumière の16番地にこの店がありました。

 

ちなみに、モンパルナスのすぐ近くのこの界隈は、当時モンマルトルから移ってきた画家たちが多くアトリエを構えていた地域でした。Rue de la Grande-Chaumière にはゴーギャンやモディリアニなど多くのアーティストも住んでいました。画材屋さんも、Castelucho, Gattengo, Morin, Janet, Sennelier, Chautard とたくさんありました。ですが、今ではほとんどなくなってしまい残っているのは創設者の孫が経営しているSennelierだけです。1960年代から始まった不動産投機のためにほとんどのアーティストも移住せざるを得なくなり、当時のアトリエもほとんどなくなってしまったのです。

ゲルニカの描かれるキャンパスを作った画材屋のCastelucho も娘が1980年代まで頑張って経営を続けていたのですが、子供がいないために友人のカタロニア人に店を売ってしまいました。この友人が店をレストランに改造したのですがうまくゆかなかったようです。この通りの14番地には今でも有名な絵画のアカデミーが存在しています。モディリアニなどもそこに出入りしていました。

 

当時見習いであった Jaime Vidal が出来上がったキャンパスをピカソのところに持ってゆくと、壁にキャンパスを張り付ける間もなくピカソは描き始めたと言い伝えられています。

 

そのころのピカソのアトリエは、rue des Grands-Augustins の7番地にある Hôtel de Savoie の最上階にありました。このホテルは当時は、プレヴェールやバローが彼らの劇団を集めていたところでもありました。

 

Vidal が壁にキャンパスを張り付け終わらないうちにピカソは脚立に上り端から描き始めたということです。そして3週間とたたないうちにピカソはゲルニカを仕上げてしまったということです。

 

ピカソのアトリエの今

ピカソがその数多い12万点に上る作品の中でももっとも有名といえるゲルニカを創作したアトリエがデラックスマンションに改造されようとしています。

 

建物のオーナーである執達吏の団体がそう計画しているのです。一応ピカソの記念館は一階に残されるようですがピカソのアトリエのあった最上階はデラックスマンションになってしまいそうです。芸術教育団体が反対しているのですが、しばらく前にパリ市が建設許可を出してしまい、この許可に対して行政裁判に訴えているのですが、このゲルニカの生まれたアトリエはなくなってしまいそうです。パリ市長Anne Hidalgo の裏切りと非難されているのですが、パリ市側は、関係者全員を集めて協議した結果であると弁解しているようです。

 

こうして文化遺産ともいえるものが少しずつなくなってゆくのは残念なことですが、我々が生きる社会も生活を続けてゆかなくてはなりませんから、難しいものがありますね。

 

ゲルニカは1937年の7月12日に一般公開されます。

ピカソのゲルニカについてはキャンパスの製作から絵画の仕上がりまで、パリは一部始終を見てきました。パリで生き仕事をしそしてそこに埋葬されたピカソですが、ゲルニカの創作80周年がスペインを始め世界の各地で行われるというのに、パリの町は控えめにしているようです。ピカソのアトリエであった Hôtel de Savoie の改造計画問題がまだ終結していないためでしょうか?

 

スペインの美術館 Reina Sofia du Madrid は、ゲルニカへの道と題して9月4日まで特別展示会をしています。

 

 

テーマ:ピカソゲルニカ、文化遺産